11/3 ヘルタな散策

ベルリン2日目。今日の目的はヘルタの歴史をめぐる散策をすること。地元紙であるベルリナー・ツァイトゥング紙のヘルタ125周年特集で歴史をめぐるツアーが紹介されていたので、それをもとに予定を組んできた。

 

 散策のスタートは、ベルリンの北の交通の要所・ゲズンドブルンネンから。ここは、ヘルタがオリンピア・シュタディオンへ移転するまで、本拠地としていた地区である。

Sバーンに揺られ、ゲズンドブルンネン駅で降りる。ホームから駅前広場へとあがる階段に、さっそくサッカーをモチーフとし、ヘルタのロゴや選手たちなどが壁に描かれている。その中に、肩車され喜びにあふれている人物が描かれている。これはかつてヘルタの名選手であった、ハンネ・ゾベック氏(※)である。【地図1】

 ホームから階段を上がり、右手に大きなショッピングセンターを見ながら進むと、駅前にタクシーなどの止まる広場がある。この広場は、2006年にゾベック氏の偉業をたたえ、ハンネ・ゾベック広場と命名された。広場から右手の方に進んでいく。

※ハンネ・ゾベック氏(1900-1989年)は、1925年からヘルタに在籍し、6度ヘルタをドイツ選手権の決勝へと導き、うち2回(1930年、1931年)の優勝メンバー。この時代のヘルタ伝説の選手として今なお語り継がれている。

なお、戦後はヘルタの監督も務め2度(1961年、1963年)のベルリン選手権優勝をもたらした。

 

 ショッピングセンターの裏手を、左手にかつてゾベック氏が住んでいた集合住宅を見ながら、ベーム通り(Behmstraße)を東の方向へと進んでいく。

 ベラーマン通り(Bellermannstraße)との交差点に、1軒のホステルがある【地図2】。なんの変哲もないホステルだが、この建物は、かつてヘルタがゲズンドブルンネンを拠点としていた時代、クラブ事務所などとして使われていた建物だそう。

 一旦、ここで正面に建つ集合住宅にそって右へと曲がる。30メートルほど進んだところに、ボールをかたどったモニュメントがある【地図3】。説明などはなく、ちゃんと見ないとボールだと気が付かないかもしれない。

 再びベーム通りへと戻り、東へとさらに進んでいく。右手の集合住宅に沿って進んでいくと、住宅と住宅のと間に小さな緑地があり、日陰にひっそりとサッカー選手をかたどった数体の像が並んでいる【地図4】。

 こここそが、ヘルタがオリンピア・シュタディオンへとホームスタジアムを1963年に移転するまで、長いこと本拠地として使用していたPlumpeの跡地である。(その後1974年にPlumpeは住宅とするため解体される。)当時のスタジアムの痕跡は何一つない。ひっそりとした住宅街だが、かつてはここでヘルタが熱い戦いを繰り広げたのだった。

(ちなみにその向かいにあたる北側は、1909年から1923年まで本拠地としていたグラウンドの跡地だそう。)

 

 Plumpeからベーム通りをさらに東へと進むと、北へと向かう線路をまたぐ形で一本の橋がある。ここは、かつてベルリンに東西に分断していたベルリンの壁の跡、つまり東西ベルリンの境界になる。

 橋から北側を見ると、検問所があったボルンホルマー通りの方向が見える。1989年11月9日、壁が瓦解するきっかけとなったシャボウスキー氏の旅行の自由化に関する世紀の記者会見のあと、東の市民はボルンホルマー検問所にも殺到。自由を求めて西側へと国境を越えて進んでいった歴史的な場所になる。

 橋の南側は、住宅街の中に、無人地帯だった幅広い緑地帯が広がる【地図5】。壁ができた後、東側に取り残された形となったヘルタファンは、境界の近くへPlumpeで行われる試合の歓声を求めて集まったそう。近くにはいるが、壁に阻まれ愛するチームを応援しに行くことができないスタジアム…。彼らがホームゲームを再び自由に訪れるのは、30年近くも経ってからになる。大都市を分断する緑地帯は、過去の歴史を振り返ると、本当に異様に見える。

【ついで情報】壁は様々な人々のつながりも分断したが、ヘルタに当時所属していたクラウス・タウベ氏もその一人。当時26歳だった彼は東側のパンコウから西側のライニケンドルフで行われるヘルタの試合に出場するため自転車で向かっていたが、ヴォランク通りの東西の境界で、それ以上先に進むことを許されず、これ以降ヘルタのためにプレーすることはなかった。

Berliner Zeitung "125 Jahre Hertha BSC: Wie Hertha unter dem Mauerbau litt "

https://www.berliner-zeitung.de/sport/hertha-bsc/125-jahre-hertha/125-jahre-hertha-bsc-wie-hertha-unter-dem-mauerbau-litt-27928370

 

 散策は、壁のあった場所に沿って、南へと向きを変えて進んでいく。道なりに進むと、壁公園へと出る。かつて越境を許さない監視のための無人地帯は、今や市民の憩いの場となり、カラオケ大会が開催されているそう。

 その壁公園の左手は、ヤーン・シュポルトパークで、スタジアムがある【地図6】。

 このスタジアムは、東の時代、ミールケ上級大将の全面的な庇護を受け、前人未到の国内リーグ10連覇を成し遂げたBFCディナモの本拠地だ。だが、ここも実はヘルタとも関係がある。ただし、決して、集客が望めないヨーロッパリーグ予選をここで開催したというような話ではない。

 もともとここはプロイセンの練兵場だった場所で、ヘルタの創成期のメンバーがフットボールを行っていた場所だそうだ。当時ここはおそらく今以上に広大な緑地が広がっていて、そこではイギリスから伝播したばかりの新たなスポーツに人々が興じていた。そんな姿を想像しながら、壁にスプレーで新たな絵を描きにきた集団を見つつ一休みする。

 【ついで情報】イギリスからサッカーが伝播した頃ドイツでサッカーはどのように受け入れられていったのかを知る一端として、映画「コッホ先生と僕らの革命」がおススメ。

 

散策を続ける。壁公園を抜けると、ベルナウアー通りに出る。この通りも東西を分けた通りの一つ。通りに沿って今度は、西へと進んでいく。

ベルナウアー通りに面する建物は、比較的新しいものが多い。これは、逃亡を防ぐため住民を強制退去させ、さらに建物を取り壊し、監視のための無人地帯としたためである。

このベルナウアー通り沿いには、ベルリンの壁の歴史に関する展示がいろいろとなされており、過去の出来事について知ることができる。【地図7】。

 

 スヴィーネミュンダー通り(Swinemünderstraße)との交差点を左手に曲がり南へと進むと、アルコナ広場にでる。ここは、1892725日にリントナー兄弟とロレンツ兄弟が現在のヘルタとなるBFCヘルタ92を創設したとされる。今年、クラブの創設125周年を記念し、この広場のベンチに記念の銘板が設置された。(設置されたベンチは、広場の北西側にある。)【地図8】

クラブ創設はこのような感じだったのかもしれない。(Hertha TVの動画)

 

ベルナウアー通りに戻り、西へ進むとU8のベルナウアー通り駅に出る。ここからU8で北へと向かう。下車したのは、テーゲル空港への路線バスも出ているオスロアー通り駅。オスロアー通り沿いに5分ほど歩いていくと、ハンネ・ゾベック・スポーツ施設がある。【地図9】ここは、かつてヘルタのアマチュアや下部組織が使用していたそうだが、トップチームも1986年オーバーリーグに所属していた時、本拠地として使用していた場所でもある。

 中に入ると、サッカーコートが2面あり、当時どちらを使用していたかまではわからなかった。また、施設の出入り口には、当時からあったかは定かではないが、飲食を提供する場もある。ビールを片手に選手と同じ目線でサッカーを楽しむそんな雰囲気だったのだろう。

 来た道を少し進むとトラムの停留所がある。トラムで一駅だけオスロアー通りまで戻り、ヘルタな散策を終える。少し遅くなった昼食をとり、14時からの公開練習へ、今度は西へとSバーンとUバーンを乗り継ぎ、ヘルタのクラブハウスを目指す。

Hertha公式ニュース